Q.22 21歳 |
保育士2年目・年中長(ぞう) 「10年に一度の問題児そろいのクラス」の担任に。 誰もが、担任をしたくない〜と思っていた;。 毎日、ナキナキ、仕事する。 辛い;。先輩も保育観が合わないし、 園長も主任もみんな役たたず・・・。 病気(メンタルも)に倒れる 。 結局、秋に已む無く退職。 医者にはしばらくゆっくりしろと言われたので、 1年くらいぼ〜っとしてみようかなと思ったけど、 貧乏性なのか、せっかちなのか、1ヶ月で、プー生活にも飽き、 駄目モトで、うけた保育園に無事再就職。 企業の経営する保育園だったので、 独特の雰囲気はあったけど、先輩にも良くしてもらって、 病気のコトも理解してもらったで、仕事ができて、 これも運命だったんだと思う。 もし、この時、保育園を受けていなければ、 二度と保育士にはならなかったと思う。 この年はお陰で、2回運動会があった(笑)。 愛しのK投手がNYから帰ってくると結婚。 一軍での登板もメキメキ増えて、少し野球以外の遊びも楽しくなる。 |
Q.23 22歳 |
保育士3年目 密かに、19歳の頃から続いていた腐れ縁の♂の人と、別れ、 野球もソコソコになっていた頃、 娘のパパと出会う。 彼は付き合って1ヶ月でプロポーズ。 子どもは若いうちに欲しかった私は、結婚を意識し始める。 仕事の方は順調で、10月の運動会をきりにして、転勤。 1からのスタート状態の新たな場所での保育。 下町にある土地柄、面白いことも多々あった。 園長代理・保育主任も任され仕事が楽しくて仕方が無い。 |
Q.24 23歳 |
保育士4年目。 3月妊娠発覚。計画的犯行だったので、嬉しかった。 ツワリは辛かったけど、妊娠6ヶ月まで、 滑り台の天辺まで走りのぼり子供たちと遊んでいた。 職場と新居が遠いという理由で退職。 7月F日に結婚。 育児サークルに入る。妊娠した=ママの自覚がほしくて。 今も、育児サークルは形は変わったけど、 メンバーは変わらず、続けいている。 2000年11月27日、PM6:19娘が生まれる。 3294g。泣き声の大きな女の子。 優しく明るく夢をもった子に育ってほしくて、 「優明(ゆめ)」と名付けた。 私が妊娠4ヶ月ころからオンナノコの予感がして、 決めていた。 優明(ユメ の優はGIANTSが優勝した年に生まれたから優(笑)!! |
Q.25 24歳 |
娘@歳。 妊娠発覚から落ち着いた日なんて一日もなかった。 お金って本当に怖いなァって、思った。 毎日が、育児以外のことを考えなくてはならないことで いっぱいだった。 本当ならば、育児には、余裕をもって過ごせたと 思うけど、可愛い〜♪と思う気持ち以上に、 日々の生活に追われていた。 やつれていった。おかしくなりそうだった。 知らない土地で、赤子を抱えて何度も自害しようと考えた。 泣いてばかりいた。泣かない日はなかった。 |
Q.26 25歳 |
娘A歳。 近所のスーパーの中に、市営の「子育て支援センター」ができた。 水曜以外、日曜・祭日も開いている。 いつのまにか、そこがココロのオアシスになり、 大事な友人もできた。 不安な生活は変わらなかったけど、ホッとできる感じがした。 早朝から深夜まで娘と二人。 法律事務所・弁護士・裁判所なんて言葉も身近だった。 でも、娘の為と思うと頑張れた。今じゃもう、考えられない。 お金は人を変える。本当に怖い。 |
Q.27 26歳 |
娘B歳。 とうとう、今までの無理がたたって、 「ウツ・パニック障害・気分性障害etc・・・ いろんな病名といろんなお薬が出された。 せっかく慣れた町から、実家のソバに泣く泣く引越しをした。 実父母も限界だったのでしょう。 お薬を飲んで眠ってばかりの毎日。 娘はおかげで、ある意味、自立できたけど、 私は、自分の不甲斐無さに何とも言えない気分だった。 病人と認めることがいやだった。 でも、家事もできず、外にも出られず、 パニック発作で、救急車で運ばれ、泣いて喚いて叫んだ生活よりは、 娘にとっては幸せになったと思う。 偶然、良い幼稚園にも入園できることになり、 ただ、休養の日々。人が怖い。お金が怖い。自分のココロも怖い。 自殺未遂もした。子ども産めずに手術した。 生きてること=娘のためでしかなかった。 |
Q.28 27歳 |
娘C歳。幼稚園に年少で入園。 すぐに友達もできて担任の先生とも親子共々相性バッチリだった。 ようやく自分の時間が持てるようになり、 病気もよくなってきた。 (3月WEB日記開始・5月HP開始) 野球にも行ける位、回復してきた。 愛しのK投手は相変わらず現役で、変わらず素敵だった。 宮崎にも行った。 16年振りにHIROちゃんと再会した。 |
Q.29 28歳 |
娘D歳になる(11月)。 病気はだんだん良くなってきている。 一人で電車にも乗れるようになったし、 野球も観に行けるようになった。 娘は年中にして、担任の先生との相性が合わず、 「プチ登園拒否」もあったけど、今は楽しそう。 年少の5月頃〜現在までYくんが大好き。 そして、野球にも詳しくなり、よき相棒。 今は、実家で暮らしている。 この先はまだわからない。 未来はわからない。 でも、これ以上最悪はないというくらい、 底をみてきたから、大丈夫な気がする。 この先の未来は明るいと信じたい!! (2005・8・5) |